原作本(『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』)を読んだことはない。
しかし、実際にこの授業が行われた当時、そのドキュメンタリーを見た記憶がある。
その時、これは教育ではない、責任を取るべき教師がそれを放棄している、と感じた。
その事がずっと記憶の片隅にあった。
その後、『ブタがいた教室』という映画が作られた事を知る。
先日、ふと思い出して、今回DVDで確認することとなった次第。
この映画については、映画そのものよりも、食べる為に豚を飼育するという「命の授業」に関心と評価が向かうだろう。
それは、「食べ物の大切さ」と「命の大切さ」を考える(教える?)「生きている授業」として計画されたことになっている。
それについて「覚悟を持って頑張ります」と新任の星先生は言う。
しかし、結論から言ってしまえば、その計画はあまりに杜撰で、彼には最終的に全面的な責任を全うしようとする覚悟も無かったのである。
「真剣な話し合いによる自主的な判断」を尊重するという名目の下に、全ての選択とその責任を児童に丸投げしてしまった。
通常、豚は生後6ヶ月(生育の遅い種に於いては8ヶ月)で肉にされるとか。
それならば、初めから6ヶ月という期間で計画されなければならないし、豚肉生産計画として当初から6ヶ月の細かな日程を決定していなければならないはず。
それを理由もなく引き延ばすようなことがあってはならない。
しかし、映画では、1年後の卒業が迫ってくることで、それまでに結論を出さざるを得なくなる。
実際の授業では、原作にあるようにその期間は900日にもなるのである。
豚との生活が長引けば長引くほど、愛情が深まり、思い出が作られ、豚は単なる肉用動物や飼育動物などではなく、かけがえの無い存在となっていく。
まして、豚は知能も高いのだから。
それは、当然の成り行き。
そうでなくても、恐らく初めから、そう「Pちゃん」という名前を付けた時から、豚はただの豚ではなくなっていた。
6年2組の仲間になった。
そんなことは当然予想され、そうなることは必然であった。
しかし、星先生は計画段階でそれらを完全に無視し、現実の前では児童達の「自主性」なるものに任せた。
そして、ずるずると、卒業という変更しようも無いタイム・リミットに至るのである。
彼には豚肉生産という「食育」に対して、全く計画性がなかった。
指導もしなかったし、指導力もなかった。
その結果、豚は大きく育ち、手に余るようにもなる。
「この豚を先生はみんなで育てて最後には食べようと思っています。」と言って教室に連れてきたこと、クラスのみんなはそれを一応承諾して飼い始めたということ、それらは彼の免罪符にはならない。
また一方、当初の約束ということで児童達に責任を問うことも許されない。
何故なら、初めから出来もしない約束だったのだから。
さて、豚を飼育することは、「命の大切さ」を考える授業にはなっていたのだろうか?
転校生の花ちゃんは、Pちゃんを捕まえた時「心臓がトクトクトクって動く」のを肌で感じる。
そして、豚の鳴き声にも色々あることを知る。
クラスのみんなは、自分の食べ物を残したり、別に買って貰ったりまでして、Pちゃんに餌を与える。
糞尿を始末し、豚小屋を清掃し、ブラッシングをし、Pちゃんが出来るだけ清潔で快適に過ごせるようにと気を遣う。
嵐が来れば大丈夫かと見回り、寒くなればマフラーその他で防寒を考える。
Pちゃんがいつも幸せに暮らせるようにと心を砕く。
その日々の生活を、その命を、大切に思う。
それは、翻って自分自身やクラスのみんなのことを大事に思うことにも繋がって行ったはずだよ。
季節の移り変わりと共に、Pちゃんもクラスのみんなも共に成長し、Pちゃんを中心にみんなで泣いたり笑ったり。
こうして、Pちゃんを飼うことは本当に実りの多い「命の授業」になっていた。
それで十分だった。
しかし、豚を飼うということは、鶏やウサギや犬や猫を飼うような訳にはいかない。
体重100s、実際には3年目に300sにもなっていたとか。
そして、卒業というタイム・リミットが迫る。
ここで持ち出されるのが当初の目的(約束)なのである。
映画の中では、卒業まで149日目に「Pちゃんを食べるのか、食べないのか」ということについて児童達は話し合いをさせられる。
しかし、「豚を育てて食べる」などという計画は、現実にはとっくに頓挫していた事は明らか。
それも当初から。
今更「Pちゃんを食べるのか、食べないのか」などという議題を設定することの無意味さ。
星先生の無計画で場当たり的な対応という他はないのである。
そして、いわば手に余った豚の処分方法というものを、児童達に決めさせようとした。
教師の責任を、6年2組全員の責任に転嫁したと言って良い。
しかし、その事を彼は全く認識していないのである。
「動物を育て、肉にし、それを食べることを通して食べ物の大切さと命の意味を知る」ということと、「動物を飼育することを通して命の大切さを学ぶ」ということとは同じではない。
これらを同一次元で考えたら、混乱するばかりである。
動物を飼うということに於いては、形の上で違いがないのだから。
その混同は、星先生の言動に見て取れる。
児童の母親達が豚の飼育に対して苦情を言ってきた時、彼は「豚を食べることは残酷ですか?」と反論している。
一般論として豚肉生産の為に計画的に飼っている豚を食べることと、ペットいやそれ以上の関係性を結んだ存在の豚を食べることとを、同一次元で語ることなど出来るはずもない。
そんなことは、分かり切ったことでしょ?
それでも、・・・自分なら「豚を食べることは残酷ですね。残酷なことをして僕は肉を食べているのです。」と答えるけどね。
映画では、基本的に、エピソードよりも児童達の話し合いが中心となっている。
彼ら子役は、180日間の中で豚の飼育も体験し、討論の場面では台本無しで話し合いをしたのだとか。
つまり、6年2組の真剣な話し合いは、疑似ドキュメンタリーだったという訳。
その討論では、とても示唆に富んだ発言が為される。
Pちゃんはペットだから、仲間だから、家族のようだから、食べたくない、食べるのはおかしい、食べる必要はない。
豚は食べられる為に生まれてきた。
それは、人間が勝手に決めたんだろ。
私たちは肉を食べる、Pちゃんは豚だから、Pちゃんを食べる。
Pちゃんだけが可哀想で、他の豚や動物は平気で食べられるのはおかしい。
他の豚を食べてPちゃんを食べないのは差別。
みんな(どの動物も)同じ命でしょ、命に変わりはない。
他に選択肢はないの?
そして、投票結果は、食べない18票、食べる5票、分からない3票。
話し合いでは、先生の混乱そのものが現れている。
大人が話し合っても、恐らく同様に混乱した意見が出されることだろう。
そもそも「命」の重さは、同じではない。
それは極めて主観的で恣意的なモノ。
そんなことは、誰でも普段の生活で感じていることのはず。
それは理屈じゃない。
「全ての命に変わりはなく平等」だとか、「生きるということは食べること、それは他の命を頂くということ」などといった如何にも正しそうで反論の余地の無さそうな建前(理屈)では決められない。
星先生はこの話し合いに当たって、「正しいとか間違っているとかは無いので、いろんな意見を考えて話し合っていきましょう。」と言う。
そう、初めから決められないこと、結論など出せないことを、彼らは話し合わせられたのである。
一方で、隠された本当の話し合いの目的とは、Pちゃんの処分方法だった。
こんな風に、大きな不条理を、星先生は6年2組の児童達に押し付けた。
「敢えて結論に導くことなく、子供達の自主性に任せ、その判断を尊重する」という、建前を隠れ蓑にしてね。
時は進んで2月。
3年生の一クラスが、Pちゃんの飼育を引き継ぎたいと、申し出てくれる。
そこでまた話し合い。
「Pちゃんを3年生に引き継ぐのか、食肉センターに送るのか」
いつの間にか、「食べる」が「食肉センター送致」に替わってる?!
実際の授業では、「下級生に引き継ぐ、食肉センターに持っていく、農場で飼ってもらう、自分たちで食べる」の4択であったらしい。
自分達との関わりを経つような選択肢(いわば都合の良い処分)として、食肉センターが選択肢に入ってきたようだね。
今回はいよいよタイム・リミットが迫って、「責任」というものが大きくクロ−ズアップされる。
3年生には負担が重い。
3年生もクラス替えや卒業の時には悩まなくちゃならず、3年生に問題を押し付けることになる。
自分達が食肉センターへ送った方が責任を取れる。
死ぬまで飼うのが責任じゃないの?
飼えなくなったペットを保健所に連れて行って処分して貰うのと変わりない。
そして投票では、3年生に引き継ぐ13票、食肉センターに送る13票。
センター任せにするな。
(Pちゃんとの関係を)最後にしようとしている。
食べるのは、殺した動物の命を受け継ぐこと。
しょうがないジャン、あと1週間。
しょうがないから、殺すの?
ここで、食肉センター派の女の子が発言。
「本当のこと言ったら、Pちゃんに長生きして欲しいよ。引き継いで貰ってもこの問題を先延ばしにするだけ。自分達で飼い始めたんだから、自分達の手で終わりにするのが責任だと思う。」
花ちゃんが先生に聞く。
「命の長さって、誰が決めるんですか?」
「それは、・・・誰も決められないと思う。」と先生。
「でも、今、みんなでPちゃんの命の長さの話し合いをしているんでしょ?」
その後、こんな意見が出される。
3年生が卒業する時にこんな風に悩んだり苦しんだりするのは厭だから、「殺す」じゃなくて「卒業」と考える。
形があるモノより心に残る「思い出」が大切。
しかし、「Pちゃんに1日でも1秒でも長生きして欲しいです」と花ちゃん。
なんて辛いことを子供達に強いているんだろうね。
先生自身が認めているように、これは初めから誰にも決められないことなんだよ。
もし仮に、「命」の長さを決めることが出来る者が居るとしたら、それはその「命」を「所有」している者に限られるだろう。
仲間や家族の「命」を所有し、その長さを決められる者など居るはずもない。
それなのに、残された短い時間に追い詰められ、理屈や建前、特に「約束」とか「責任」という「正しい」要求の前で、がんじがらめになりながら、他の助けを借りることなく、一生懸命に「処分」に納得しようとしている子供達。
そんな彼らが到達したのは、論理とは程遠い「卒業」とか「思い出」だった。
如何にもずる賢い大人が持ち出して来そうな屁理屈と同じなんだけどね。
でも、論理的に結論づけられるような事柄じゃないんだから、非論理的なモノに逃げ込むのも仕方がない。
防衛機制。
だいたいにおいて「責任」というモノを掃き違えている。
何が本当に責任を取ることに為るのか、見極めるのは非常に難しい。
現実には、真の意味での責任など取りようのないことの方が、遙かに多い。
実際には、それをもっともらしい理屈を付けて、責任を取ったことにしているだけ。
この授業について言えば、初めから、子供達には責任の取りようがないこと。
それだけの能力も覚悟も、その現状認識に対する話し合いも為されずに始められた、先生による身勝手で無計画な「命の授業」。
本当に責任を取らなければならないのは、誰なんだろうね?
卒業まで6日、Pちゃんが逃げ出す。
探しに出掛ける子供達。
途中で取っ組み合いをする男の子。
食肉センター派の男の子を、引き継ぎ派の男の子がなじる。
「Pちゃんが居なくなって、ホッとしてるだろう?Pちゃんの命は、Pちゃんが決めればいいだろ!」
喧嘩を仲裁して花ちゃんが問う。
「Pちゃんは何の為に生きてるの?・・・食べられる為だけに生きてるの?」
「みんなは、何の為に生きてるの?」
その後、手荒な捕獲劇の現場に到着した彼らは、それを身体を張って制止し、Pちゃんと一緒にみんなで学校へ帰る。
Pちゃんのことをみんなが本当に思い遣って、それにPちゃんも応えて、一緒に歩む姿。
それはとても美しい光景。
どうして、これほど素晴らしい関係性を、学校や大人達は守ってやろうとしなかったのかね?
卒業まであと3日。
もう一度投票。
3年生に引き継ぐ13票、食肉センターに送る13票。
これは6年2組の問題だから、星先生の1票も必要だと児童達は言う。
校長先生からは、子供達がどういう判断をしたとしても最終的な結論は星先生が負うべきであり、それが教師の責任だと言われていた。
そして次の日、Pちゃんの前で先生は6年2組のみんなに結論を伝える。
「Pちゃんを食肉センターに連れて行くことに決めました。これが6年2組の最後の1票です。」
「この1年間、本当にみんな頑張った。ありがとね。」
星先生は、最終的に結論は自分が出し、教師としての責任を全うしたつもりなのだろう。
しかし、彼は現実には全く責任を果たしていない。
「豚を飼って肉にして食べる」という授業が頓挫した責任も、その挙げ句手に負えなくなったPちゃんを「殺処分」するという事に対する責任も。
此の期に及んで、豚はもともと肉として食べる動物だから、というのは単なる言い訳にしか過ぎないのは分かるでしょ?
最後の1票を自分が投じたことで、子供達が話し合いで意志決定したことの責任まで、彼は引き受けることが出来たとでも思っているのだろうか?
彼らの重い荷物を下ろしてあげられたとでも思っているのだろうか?
正式にPちゃんの引き継ぎを申し出てくれた3年1組担任に、彼は屋上でこう話す。
「子供達は、もうこれ以上頑張んなくていいんじゃないかな、って。もう十分だから。・・・」
実際には、ドキュメンタリーの中で教師は涙を浮かべながら確かこんな風に言っていた。
「もうお前達は悩まなくていい、苦しまなくていい。・・・」
自ら児童達に結論を出せない不条理を押し付けておいて、一体彼は何を言っているんだろうね。
本当は自分自身が苦しかったんじゃないのかな。
飼育期間中に何かの病気でPちゃんが死んでくれたら、彼は心底ホッとしたことだろう。
結局、彼は最後まで、自分が何をしてきたのか、何をしているのか、何をするべきなのかが、分かっていないのだった。
星先生が本当に責任を取るのだとしたら、自分の力で、6年2組みんなの本当の思いを叶えてあげなくちゃいけない。
それは、彼自らの責任でPちゃんが最期まで幸せに暮らせるように環境を整えること。
それが何年に渡るものになるかは分からない。
豚の寿命は10〜15年だとか。
病気や怪我や老化、そしてその体重を考えると、気の遠くなるような話だね。
しかし、どんなに苦しくともそれをやり遂げたのならば、彼のPちゃんに対する責任も、6年2組のみんなに対する責任も、そして教師としての責任も、果たすことが出来たと思う。
この「命の授業」と称されるもので、問題なのは、不条理を児童に押し付けたということばかりではない。
正しいとも間違っているとも言えないこと、一人一人が違っていて良いことを、最終的には多数決という形で結論づけさせたということが、大きな問題なのである。
それぞれの想いと選択、それは内実も濃淡も微妙に異なっている。
その全てが尊重されなければならないはずなのに、それらを話し合いの中で一見論理的な理屈で闘わせ、単純化した2択の多数派の結論に従わせてしまった。
いったい6年2組のみんなはどうやって、「Pちゃんを食肉センターに送る」(殺処分する)という結論を自分に納得させたのだろう?
それは決してPちゃんに対する「責任」を取ることではなかった事は、皆が分かっていたはず。
「6年2組で豚を飼育する」ということに対する「けじめ」ではあったとしてもね。
いみじくも誰かが言っていた。
「飼えなくなったペットを保健所に連れて行って処分して貰うのと変わりない。」
不条理と責任に挟まれて、彼らは6年2組の結論を引き受けた。
きっとそれには、「卒業」という理屈で自分を無理矢理納得させていたんだろうな。
何かについて子供達が一生懸命真剣に考え話し合う、それはとても得難い経験である。
Pちゃんのことをかけがえの無い存在と思っていればこそ、その運命について真剣に話し合うことが出来た。
だからといって、この試みが教育的に成功した事例だと言うことは出来ない。
「殺処分」を「卒業」と言い換え、かけがえの無い「Pちゃん」を食べられる為に生まれてきた「豚」に置き換え、手に負えなくなった豚を処分することで自分達が「責任」を果たしたと無理矢理納得する。
こんな行為のどこに教育的成果が有るというのだろう?
こうした体験をした児童達は、成長してどんな大人になっていくのだろう?
もしかすると、小賢しい理屈をこねくり回して自分を正当化し、自分の人生は自分自身で自らの責任で選択して来た、などとうそぶくようになるかも知れない。
そして、自分は責任を持って生きている、迷惑は掛けていない、他の人とは関係が無い、皆自分のことは自分で責任を持つべき(自己責任)で、人のことは自分の知った事じゃない、と言うかもね。
「責任」なんて簡単には取れるものじゃないし、自分の人生を自分の意志だけで選択出来る人はとても恵まれた境遇の人なんだし、人に迷惑を掛けずに生きることなんて出来やしないし、・・・。
ところで、「豚を飼育して食べる」という食育の方はどうなったのかな?
当初から頓挫していた訳だけれど、結局Pちゃんを食べることはなかったようだ。
実際の授業でも、話し合いの議題で「食肉センターに送る」と「自分達で食べる」が別の選択肢となっていた位だから。
それは当然なこと。
かけがえの無い仲間であるPちゃんの大切な「命」を奪って大切に頂く、なんていうことが出来るはずもない。(ご立派な理屈ではあってもね。)
せいぜい、あらゆるものに目をつぶって、Pちゃんを無き者とすることが出来るだけ。
そして残念ながら、大きく育ち過ぎた豚は、食肉センターに送られても、肉として低い評価しか与えられなかったことだろう。
もしかすると、その死はただの犬死であったかも知れない。
一人の児童の父親が言っていた。
「無駄にすることは野蛮なんだぞ。」
この「命の授業」はそんな野蛮なことをやってしまったのである。
豚の身体の全てを頂き、1つも無駄にすることなく利用し、その事を通してその命を大切に扱う、そうした授業の機会は奪われた。
その代わりに、いずれとも知らぬ所でただの肉や骨として扱われ、お墓も作って貰えなければ供養されることもなかったんじゃないのかな?
かけがえの無い大切な仲間だったのにね。
結局、星先生が計画した「命の授業」は、Pちゃんの命をもてあそび、6年2組のみんなの心をもてあそんだだけだった。
教育などとは程遠く、してはならない「授業実験」だったという他はない。
ただ、6年2組のみんなとPちゃんの関係性だけは真実だった。
それが唯一の救いである。
でも、それだからこそ悲しいね。
それを守ってやることが出来なかったんだから。
最後に、映画そのものに対する評価をしておかなければならぬ。
キャッチコピーは「――命の長さは、誰が決めるの?」だったとか。
果たしてその問いかけは、どのように観客に伝わったのかな?
それは兎も角、この映画は、26人の子役達に実際にあった「授業実験」を追体験させることで成立している。
現実の32名の児童に比べれば、その影響は小さいかも知れない。
あくまでも映画撮影の中でのことであるから。
とはいえ、するべきでない「授業実験」を彼らに体験させて、本当に良かったのだろうか?
自分は、大いに疑問に思うのである。