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2009年06月23日

『大丈夫であるように −Cocco 終わらない旅−』を観る

「ジュゴンの見える丘」の歌詞は、ひめゆり学徒隊のおばぁ達に対して掛けていた言葉でもあったんだね。・・・

もういいよ 目を閉じていい
もういいよ 少しおやすみ
悲しみは いらない
やさしい歌だけでいい
・・・・・・・・・・

おばぁ達には自分達だけが生き残ってしまったという罪悪感があって、Coccoは彼女達に「もういいよ」って言ってたんだ。
沖縄でのコンサートでは、おばぁ達の前で「ジュゴンの見える丘」を歌い、また彼女達が良く歌っていたという「お菓子と娘」を歌う。(「お菓子と娘」は映画『ひめゆり』がらみのお話。)
Coccoの歌は「傷口」を抱えた人へのプレゼントのようだった。


別に、自分はCoccoのファンという訳ではない。(いや、誰のファンでも無いんだが。・・・苦笑。)
ちょっと気になって、Coccoを追ったドキュメンタリー映画を観てきた。
もうかなり時間が経ってしまったので、忘れてしまわないうちに記録しておこうかと。 (^^;)

プロデュース・監督・編集は、是枝裕和。
『誰も知らない』の監督。(あの映画も観たけれど、終わりはどんなんだったっけ?笑。)

監督がCoccoを追い始める切っ掛けとなったのは、「ジュゴンの見える丘」だった。
2007年11月、ネット上で“LIVE EARTH”(7月7日、幕張メッセ)の映像を見たのだという。
僕が12月1日に初めて「ジュゴンの見える丘」を聞いたのもあの映像だった。
ジュゴンと基地と沖縄を語りそして歌うCoccoの姿、そこには痛切な祈りがあった。
それからのことだ。
「泣きながらカメラを回した」というエライ事態が監督に起きたのは。
監督は、「‘まだ’と‘もう’に支えられた‘いま’という時間」(彼の言葉)を記録しようとしたのかも知れない。


映画の冒頭近く、移動中の車の中で黒糖(母親の故郷の伊平屋島産)を囓るCoccoの姿。
「彼女が物を食べているのを見たのは初めてだった。」(監督)
それって、どういうこと?

旅の始まりは1通の手紙だった。
「六ヶ所村の‘女’」(Coccoの言葉)からのもの。
青森県六ヶ所村、神戸、広島、そして沖縄。
自分と同じ痛みを抱える人が日本中には沢山いることを彼女は知る。
Coccoの旅は、傷口や傷跡とそこに纏わる様々な想いを辿る巡礼の旅のようだった。

「青森のこと知らなくてごめんなさい。」
「青森は沖縄と似ている。」
「沖縄で生まれて、沖縄のことしか知らなかったから、本土の人に助けてもらいたかった。」
「でも、日本の中だけでも知らないことはいっぱいあった。」

彼女は何でも背負ってしまう。
そして責任を感じてしまう。

でも、六ヶ所村の核燃料再処理工場について、沖縄のCoccoに責任は無いよ。
沖縄には原子力発電所は無いし、将来だって必要とも思えない。
国民の1人としての責任はあるのかも知れないけど。・・・
青森と沖縄が似ているのは、恐らく中央(或いは大都市)と地方の問題。
さすれば、首都圏に住む自分の方が余程罪深いはず。


Coccoの友達が癌で死ぬ。
その死に顔は、死んでいるとも思えず、まるで楽しくて笑っているようだった。
そんな彼女の棺に入れた歌が「鳥の歌」。
「よんなーよんなーよ。」(「焦らず、ゆっくり」の意。)
天国では絶賛大ヒット中(?!)だとか。

「生きたくても生きれない人たちを見てきて、出会って、見送って、なんかそういうのも全部引き受けてっていうか受け継いでっていうか、・・・何だろう?」


Coccoは日々の中で何かに感じた時に自然と歌が生まれるらしい。
「♪今日のウンコは長かった〜」とか。(笑。)
そして生まれた歌を人にプレゼントする。
監督にも『誰も知らない』を観て生まれた歌を贈っている。
「砂場の海賊」という歌らしい。(未音源化。)
そして、ツアー中にも歌は生まれる。
「バイバイパンプキンパイ」という歌は神戸で生まれたんだったか?


琉球芝居の役者である祖父のこと。
お祖父さんは、那覇の街を財布を持たずに歩けるらしい。
「筑紫(哲也)」もそうだとか。(みんな「筑紫」のことが好きだから。)
そして、自分はそこまでは行ってないとか。
彼女の底流にある「沖縄音階」のこと。
今まで公にはしなかった9歳になる息子のこと。


コンサートで彼女は語る。
「言いたいことは1つです。・・・イキロ。いきろ。生きろ!生きろー!!」
その言葉は強いメッセージでありながら、彼女自身に言い聞かせているようにも見えた。

「あっちゃん大丈夫にしてあげれないし、ただ、でも大丈夫であるようにってはいっつも思ってるから。」

Coccoが責任を感じ背負ってしまうモノ・・・「痛み」、「傷口」、「傷跡」。
それらを自分自身で引き受け、受け継いでいく事。
それが彼女の歌なのだった。
自分の存在価値を疑い、死ぬことばかりを考えていた若き日のCocco。
今は、「生きなきゃいけない理由がどんどん増えていく」。
その姿は痛々しくもあり、申し訳ない気持ちにもさせられる。
「歌で何ができるのかわからないけど、失くすものも守れないものもいっぱいあるけど、それでもやっていこうと思う。」
彼女にとっては、歌うことが「生きる」事に他ならない。
そして、「生きる」とは「愛する」ということなのだった。

彼女はかつて“ゴミゼロ”についてこう語っている。
「(あっちゃん‘ゴミ’じゃないよ。)‘ゴミ’じゃなくて‘歌’だよ。Co(cco)は歌が歌いたくて。Co(cco)は‘愛してる’って言いたいんです。」
「あっちゃんにとっての“ゴミゼロ”って、愛してるっていうことだから。愛してるって言うってことは、今歌うっていうことだから。」
「あっちゃんは自分のやり方で、自分の立ってる場所を、ちゃんと愛していこうと思ってます。」


“ジュゴンの見える丘”で、監督のインタビューに答えるCocco。
『もののけ姫』の終わりには完全な破壊を望んでいたのに、最後に一本の花が咲いて大きな不満があったこと。
でも、息子と見に行った時には、どうか最後に花が咲いてくれと願い、「希望」を与えたかったこと。
夕日に照らされる台所の風景の幸せ。
息子がいて、家族がいて、・・・それでも彼女からは生活実感がほとんど感じられない。
彼女にとって、息子や家族の存在は、それが直接的には生きる理由とはなっていないのかもしれない。


Coccoは色々な事を引き受け、悩み、苦しみ、そして一人になる。
ライブで泣き、その後も一人で泣く。
そんな彼女にファンから沢山の手紙が届く。
その多くには、「何とかして欲しい、助けて欲しい」と書かれている。
しかし、その中で「六ヶ所村の‘女’」からの手紙には、「助けて」とは書かれていなかった。

或る日の夜、Coccoは沢山の手紙を海岸に持ち込む。
砂浜を掘って、そこに手紙を投げ入れ火を付ける。
段ボールでそれを煽って、火の粉を海面に巻き上げる。
1つの儀式。
おもむろに自身の髪をはさみで切り始める彼女。
切った髪の毛を火にくべる。
「髪の毛って、・・・死んだ人の匂いがするよね。」
そういいながら、更に髪を切る。
そうやって、Coccoは彼女自身が引き受けたモノに区切りをつけ、昇華しないではいられないのだった。
最後に一通の手紙を取り出し、読み返す。
「これが今日の最後。六ヶ所村の‘女’から。」
そう言って、彼女は最後の手紙を火に投じた。
そうして1つの旅が終わる。


この映画には、もちろん「沖縄の‘女’」のCoccoが描かれている。
しかし、「青い海」も「青い空」も全く登場しない。
たまたまそうだったんだろうけれど、“ジュゴンの見える丘”でのインタビューシーンでさえ。
沖縄の海も空も、冬の青森の鉛色のそれと呼応しているかのようだ。
だからといって、映画が絶望で支配されている訳ではない。
責任を持って全てを受け継ぎ、引き受けていこうとする一人の‘うたうたい’の生きる姿がそこにはあった。
それは、彼女の「愛」の形に他ならない。

映画の最後に幾つかのテロップが流れる。
その中に「2008年4月 Cocco拒食症の治療のために入院」とある。
「もういいよ」
そう彼女には言ってあげたい。
でも、それが彼女の生きる道で、それ以外は無いのかも知れないね。
それならせめて、「大丈夫であるように」と僕は願っていよう。
posted by カムイ at 05:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画&ドラマ・DVD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

穴熊(あなぐま)現る!

「昼休み アナグマが出た」
これは、昨日(23日)の朝日新聞の記事。
19日午後1時20分ごろ、相模原市藤野町の市立藤野北小学校でニホンアナグマが見付かったらしい。

藤野北小学校、ってどこに有るねん?
地図を見る。(→ここ。)
陣馬街道の途中で、結構山の中だね〜。
どんな所かというと、こんな所。(→http://www.youtube.com/watch?v=-NQQ_JTPCEA
この動画の4:33辺り、右に上った所だろう。


この記事を見て思い出した。
あれはちょうど1年程前。
深夜にサンルームから音がする。
ゴソゴソ。
そして鼻息。(フガフガ。)
ン?
ウチの猫ではなさそう。
他所の鼻炎の猫が来て餌を食ってるのかな?
ロールスクリーンを開けてみる。
すると、ノソノソと外へ出て行くまあるいお尻。
ンん??
見た事の無い猫だな〜。
それも丸々と太った。(新入り?)

そしてしばらくすると、再びゴソゴソ、フガフガ。
戻って来たん?
ロールスクリーンを開ける。
再び、ノソノソ。
あんまり慌てた様子でも無いが。・・・
ハァ???
ウチの二匹の猫はどこへ行っちゃったんだよ!?

そしてしばらくすると、三度(みたび)ゴソゴソ、フガフガ。
しつこいね!
これはちょっと懲らしめておかなくちゃ。
そこでそっと玄関から出て、サンルームの仮設キャットドア(フラップ)をコンクリートブロックで塞いだ。
あれっ(?!)、変だね。
猫だったら飛び上がるはずだが?
一体全体、ここにいるのは何者??!

暗い所で目を凝らして良く見てみる。
一瞬タヌキかと思ったのだけれど。・・・
アライグマ?
いや、違うな。
丸い身体に長い鼻。
短い剛毛。
長く鋭い爪。
あれれれれっ、・・・アナグマじゃん!!!? (@_@)
初めて見た。(あは。)

アナグマ.jpg

このアナグマ君、何度か出入り口へ向かうも、脱出不可能と見るや部屋の隅にうずくまってしまった。
緊張の為か、口からヨダレが止まらない。
写真を撮って、少し観察して、・・・。
もう逃がしてやろうと思ったその時、出入り口へ突進!
コンクリートブロックを弾き飛ばして出て行った。

それにしても、家の近所にニホンアナグマがいたなんてね!
ウチは藤野北小に比べたら全然山の中じゃないんだけど。・・・
そもそも、家の敷地にはどうやって入ってきたんだろ?
余り開いている場所も無いはずだが。・・・(猫じゃないんだから、塀を跳び越えたりしないよね?)
猫の餌を食べる事はいつ覚えたのかしらん?
それもサンルームの出入り口まで知ってるなんて!?(苦笑。)
近所には、アナグマが穴を掘って巣穴を作れるような場所が有ったのかしらん?
住宅ばかりのはずなんだけど。・・・

おそらく、アナグマの存在に気付いている人はほとんどいないんだろうな。
地域によっては数が減って、なかなかお目に掛かれないとか。
夜行性だしね。
それに、タヌキと混同されたり、共に「ムジナ」と呼ばれたり、・・・。

人間が気が付かない所で、それも人の生活のすぐ側で、野生動物が逞しく生きている。
そのことに気が付けた事はうれしい。
しかし、野生動物が人間の出す食料に依存するような事態は、厳に避けなければならない。
仮設のキャットドア(フラップ)は、高価な専用のキャットドアに換えた。
その後、アナグマの姿を見た事は無い。
もう、猫の餌を食べに来てはいないと思う。(多分。・・・)
アナグマにとっては、キャットドアは少々小さいはずだからね。

ところで、かなり昔、東京電力のアニメCMがアナグマだった。
そのキャラクターは、スーザン・バーレイ著『わすれられないおくりもの』という絵本のものらしい。
「死」の意味を通して「生」を照らし出すというこの絵本、一度手に取ってみたいと思いながら、未だ為し得ず。
絵本のキャラクターのように、アナグマ達は温和しく、特に悪さをするような事なんて無いはずだと思う。
彼らの鋭い爪はまさしく穴を掘る為のもので、凶暴な凶器とは異なる。
でも、・・・ヨーロッパでは、このアナグマを猟犬を使ってなぶり殺しにするゲームが行われて来たんだよね。(今でも?) (>_<)




posted by カムイ at 07:22| Comment(2) | TrackBack(0) | 季節と自然と環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月20日

山原(やんばる)とヘリパッド、そして森と水と海と

先週、『心〜ククル〜 UAやんばるLIVE』の上映会へ出掛けてみた。
家から比較的近所だったから。
UA やんばる LIVE.jpg

実は、UA(ウーア)のことは全く知らない。
楽曲も初めて聴いた。
それらは、豊饒な自然(それは決して静謐なんていうことはなくて、命や精霊が充ち躍動しているはず)の中に佇む人間存在を表現しているのかと思った。
それが古い奄美の島唄であったとしてもね。
歌の言葉からは強く響いて来るものを感じない。
しかし、彼女の声とサウンドは一体となって聴く者を包み込む。
それは、あたかも子守歌のよう。(実際、歌うUAの膝で完璧に寝入ってしまっている子供がいて笑った。)
やはり、人間の「声」は根源的な楽器だよね。


さて、沖縄県東村高江の集落を取り囲むように“ヘリパッド”6カ所を新たに建設する工事が既に着工されている。
米軍北部訓練場の約半分を返還することに対する交換条件。
これは、軍隊の訓練に伴う住環境の破壊や危険を、少数の一部地域住民に押し付けるものと言うことも出来るだろう。
その見返りに、迷惑施設に対する“迷惑料”が地元自治体に落ちるという構図。

北部訓練場では、世界的にも貴重なやんばるの森の中で、ジャングル戦闘訓練が行われている。
米軍とすれば、半分は返すから残りの所で思う存分訓練をさせてくれよ、ってか?
それで、高江の住民はヘリの爆音にしょっちゅう首をすくめていなくちゃならない訳?
やんばるの森は、貴重な自然環境の上に、県民にとっては命の水瓶。
だから、いずれ全部返してくれなくちゃ困る。
もう新たな施設なんて作らないでくれよ、というのが正直な気持ち。

残念ながら、やんばるの森は既に林道やダムによって環境破壊が進んでいるのだろう。
北部訓練場が半分返還されたとしても、その環境の将来には非常に大きな危惧を感じてしまう。
皮肉な事に、基地が有ったから辛うじて守られてきた自然、という現実もあるはず。
やんばるの森の環境保全については、基地の問題とは別にしっかり取り組むべきことには違いない。


上映会は盛況とは言えなかったものの、参加者の中には色々な事に取り組んでいる人がいて、その話を聞くのは勉強になる。

まず、「NPO法人 森の蘇り」で活動されている方。
富士山麓の人工林で間伐を行って森の再生を目指している。
その間伐の仕方がユニーク。
子供でも出来る「皮むき間伐(巻枯らし間伐)」という方法。
現在、日本の人工林はほとんどが手入れをされないまま放置されている。(ちょっと近所の山を歩いてみればすぐ分かる事。)
これらは、見た目は「緑」だけれど、実は瀕死の森なんだよね。
間伐をしても、間伐材が経費に見合う経済価値を獲得出来るかどうかは正直分からない。
林業の再生は、実際の所、甚だ困難な事だと思う。
しかし、間伐を行う人の裾野を広げて行けば、少なくとも森の再生は出来るはず。
それは森の環境の豊かさ(多様性)を取り戻す事になるし、ひいては水環境や海の豊かさにも繋がって行く。
こんな活動が富士山から全国に広がっていけばうれしい。(ごみ拾いと同じようにね。)
パンフレットで紹介されていた「皮むき間伐」関係の書籍、早速注文してみたよ。




そして次は「NPO法人 杜の会」で活動されている方。
久高島やヤンバル地域での環境学習や環境改善(保全)活動を通じて、沖縄らしい力強い自然の回復と地方の豊かさの獲得(回復)を目指している。

一見豊かな自然環境が保存されていると見られているヤンバルの森が、実はかなり貧弱になってきているのだという。
こうした自然の弱体化は、当然ながら農地や住宅地周辺にも存在している。
農地は痩せ、水は枯れそして汚れ、川や海の環境を破壊して行く。
そうした原因の多くはコンクリート構造物。
それらが土壌や周辺環境の水と空気の流れを阻害し、その結果、自然の貧弱化が起こる。
土壌は流失し、川は汚れ、赤土は海へと流れ出す。
その一方、森から川や海に供給されていた栄養分が枯渇する。
これらは、人間で言えば血液やリンパ、或いは「気」の流れが滞って病気になった状態。
そこで、ポイントを押さえて水や空気の流れを整えてやる。
そうすることで、その後は手を加えなくとも、自然の持つ本来の力で豊かさを取り戻して行くということらしい。

その他、やんばるでは急速な過疎が起きている事、その上豊かな自然も失いつつある事、お米は三毛作が出来るのに水田面積は非常に減っている事、沖縄の食糧自給率(特にカロリーベースで)は極端に低い事、・・・驚くような話が多かった。
土建行政が地方を貧しくする構図はどこも同じ。
過疎で人を失い、その上自然の豊かさを失ってしまったら、地方には本当に何も無くなって、貧しさだけが残ってしまうだろう。
作物も豊かに実らず、海の幸・山の幸も貧しくなった所に、一体誰が住めるというのだろう?

島では、地産地消が最も効率的で、また豊かさの証。
水だって外から運んでくる訳にはいかない。(尤も、久高島の水需要はやんばるの森に依存しているらしいけど。・・・)
沖縄島は大きいとはいえ、「島」として十分意識出来るはずだし、それ故、山(森)と川と海の関係性が比較的見え易いはず。
そんな沖縄で行われる環境教育や環境改善活動には大きな希望を感じる。
山と川と海が緊密に繋がっている事。
環境の豊かさとはそれらの関係性が健全であるという事。
そして環境の豊かさによって、水も食料(農作物や海・山の幸)も我々人間にもたらされるのだという事。
そうした事柄を沖縄では感得し易いはずだし、そこから多くを学ぶ事が出来ると思う。
それは、本土でも全く変わらないんだから。


ところで、『心〜ククル〜 UAやんばるLIVE』の上映会、当地では4月から毎月行う予定なんだとか。(http://wotwisp.com/UA/
運が良ければ、なにげにゲストが隣にいたりして?!(自分には運が無かったようだが。苦笑。)
つまり、・・・広い意味ではご近所だったという訳さ。 (*゚0゚*;)
posted by カムイ at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節と自然と環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

頑張れ、イチロー?!!

と言っても、野球の話じゃないよ。 (^_-)
鈴木一朗じゃなくて、小沢一郎の話。
西松建設の違法献金がらみで、去就の注目される小沢さん。
民主党代表をいずれ辞任すのるが自然の流れと思っていたけれど、・・・最近、自分は考えを変えた。
ここはまだしばらくの間、彼に頑張って貰いましょ!

違法献金問題は、政治資金規正法の形式犯のみで終わるのか、それ以外の犯罪事実があぶり出されて来るのか?
談合組織への働き掛けが、果たして贈収賄罪の犯罪要件を構成するのか?
自分には良く分からない。
しかし、同じようなことは他にも枚挙に暇がないだろう。
だから、政治謀略も噂される。
いずれにせよ、企業が何らかの見返りを期待して政治家に献金する構造は昔から変わっていない。
法律の趣旨は脇へ置いて、みんな抜け道探しに熱心なの。(笑。)

政党交付金総額は、国民1人当たり年間¥250。(つまり300億円以上!)
政党助成法が制定される時、企業団体献金は禁止する予定じゃなかったっけ?
忘れちゃった??
先日、小沢さんは企業団体献金の全面禁止を衆院選のマニフェストに盛り込むことに前向きな姿勢を示したとか。
「企業および団体献金の全面的禁止ということ以外に実効が上がらないでしょ。」
まさにその通り!!
言い出した以上、このまま突っ走って頂きましょう!

それから少し前、彼は「軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ。」と発言した。
安全保障政策は軍事力にばかり頼る必要もないし、軍事バランスだって考え方は色々有る。
絶対的な正解なんて無いばかりか、結構いい加減なものでしょ?
石頭は捨てて、柔軟に考えればいい。
民主党は米軍再編についても改めてアメリカと交渉するつもりのようだし、沖縄の基地を県内に移転することには反対している。
小沢さんには、少なくとも新たな基地を沖縄には作らせないと宣言して貰いたいね。
そして、普天間基地代替施設の建設案を無意味化して貰いたい。
そうそう、思いやり予算もこの辺で打ち切りということで!
ますます小沢さんに頑張って貰わなくっちゃ。

米軍の軍事的意味について興味深いビデオが有ったよ。

  http://www.youtube.com/watch?v=gb0nMstqbuI

クリントン国務長官が来た時、小沢さんは「日米関係は従属的であってはならず、対等なパートナーシップでなくてはならない。」と言った。
そんなこと当たり前じゃん!
その当たり前のことを言うことが出来ない政権の方がおかしいの。
日米地位協定の見直しもヨロシク!

そういえば、アメリカではAIGが幹部社員に総額1億6500万ドル(約160億円)のボーナスを支給したんだってね!!? (@_@)
あそこは、総額1,700億ドル(約16兆7,000億円)超の公的支援を受けているのに。・・・
アメリカはいずれ破綻する。
それで、担保も取っていないアメリカ国債を大量に保有していて、日本は大丈夫なの?
これ以上アメリカ従属の政策を取っていたら、日本は泥船に一緒に乗り込むことになるよ。
中国やインドとの関係がこれからは非常に重要になって来る。
それこそ「国益」の為に、自立した政治を希望!

考えてみると、小沢さんにはまだまだやって貰わなくちゃならない事が沢山ある。
実は、自分は小沢一郎という人物を全く信用していなかった。
「壊し屋」でこらえ性が無く、独断専行で突っ走るところが嫌い。
福田・小沢の「大連立」構想なんて、サイテーな裏切りだった。
また、彼の軍事的な国際貢献に対する考え方にも納得出来ない。
でも今は、「政治決断」の出来る強力なリーダーシップが必要なんだと思う。
取り敢えず、スピード感のある決断と変化が必要。
先送りは、もう御免こうむる。

民主党は、公共事業の見直しや干潟の保全も打ち出している。
諫早湾の潮受け堤防の開門や泡瀬干潟の埋め立て工事中断など、ここは小沢さんに即「政治決断」して貰いたい。
あ、それから、高速道路も早くタダにしてね。
ケータイの料金プランみたいに複雑な割引制度なんて馬鹿げてるでしょ?
タダにすれば、ETCも料金所もいらないじゃん!
自分は、ETC車載器は買わず、カードも契約しないで、その日を今か今かと待ってるよん! (^_^;)
posted by カムイ at 23:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 政治・経済・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月25日

「カジムヌガタイ」を読む

少し古い新聞の紙面にふと目が止まった。
カ・ジ・ム・ヌ・ガ・タ・イ?

比嘉慂(ひがすすむ)という漫画家は知らない。(尤も、名前を知っている漫画家も少ないけど。・・・)
「慂」という漢字は「すすむ」って読むのか〜。(難しい漢字だね。)

2003年に講談社から発行されたもの。
今は絶版となっているらしい。
amazonで見てみたら、中古品に新品の3倍以上の値段が付いてる! (@_@)
仕方がないので、初めて電子書籍なるモノを購入。


この本は、表題の作品を含む6本の短編集。
表題には、「風が語る沖縄戦」という副題が付いている。
「カジ」は、「風」のことらしい。(え[e]→い[i]という変化?)
「〜ムヌガタイ」=「〜物語い」かな?
本の中では、「風」の他に「星」、「鳥」、「子供」、「石」も語っている。
これは余談だけれど、「比嘉」は元々は「ふぃじゃ」と読むみたいだね。(つい最近知った。)

太平洋戦争敗戦前後の沖縄。
もちろん沖縄戦のことを扱っているのだけれど、その悲惨な地獄絵図はこの劇画にはほとんど登場しない。
米軍との戦闘やその時の状況が主題ではない。
また、本土の犠牲となったことを殊更に告発している訳でもない。
そこに描かれているのは、戦争そのものと言うよりは、謂わばその周辺に存在したもの。
それらが、淡々と物語られる。
しかしながら、そこにこそ戦争、軍隊、国家、そして人間存在そのものの本質的なる事柄が浮かび上がって来るのである。

住民の生命・財産を守る存在であるはずの軍隊が、戦場でどんな振る舞いをするのか?
戦闘が終わった後に軍隊は何をもたらすのか?
国家はそんな状況でどんな風に立ち現れるのか?
軍隊は、戦闘は、人をどう変えてしまうのか?
人間存在の本質とはどんなものか?

後方支援も無く絶望的な戦闘に突入した軍隊は、住民に食料や物資の供出を求める。
軍事作戦の為に住民を徴用する。
敵に追われた部隊は、壕に避難している住民を追い出し、その命令に従わなければ切って捨てることもある。
軍隊は、住民を利用するだけ利用して、足手纏いになれば捨て去る訳だ。
また、食料を強奪したり、徴用した女学生を手込めにする部隊や兵士。
或いは、島の住民をマラリアの蔓延する西表島へ強制疎開させ、住民の犠牲を拡大させる独裁者のごとき少尉。
そんな軍隊の中でも裏切りが有り、無謀な作戦の責任を取らず、仲間を捨て石にして生き延びようとする軍上層部。

戦争の現場では、国家を背景とした軍の命令が絶対。
国や軍の権力をかざせば、何もかもが許されるかのようだ。
そしてひとたび戦争が終われば、戦争そのものや軍や国に責任を転嫁して、個人は責任を負おうとはしない。
「法の支配」が全く及ばない状況。
その状況は占領後にも続く。
山麓の集落にジープで乗り付け、悪業を繰り返すアメリカ軍人の三人組。
強姦、殺人。・・・
それに対し、住民は自衛するしか手が無く、ついには私刑を行うことになる。

徴兵され大陸へ渡った沖縄の青年。
彼は、中国人を相手に銃剣で殺傷することを上官から命じられる。
『蟻の兵隊』に出て来る初年兵教育としての所謂「肝試し」だ。
そして発狂。

子供好きな平凡な田舎町の教師は、中国を転戦した後、沖縄へ配属される。
大陸で、そして沖縄で繰り返す残忍な所行の数々。
自殺にまで追い込んだ部下の名前を語り、戦後を生き延びようとする。
そんな彼は、変わってしまった自分自身を「殺したいぐらいに嫌い」なのだった。
彼は呟く。
「戻れるだろうか 子供たちの匂いのする教室に・・・・・ 帰りたい」

戦場は人を変える。
平凡で善良な人間が鬼畜となる。
それは、自分自身かも知れないし、友達や家族の誰かかも知れない。
もちろんそうならない者もいるのだけれど、誰もその無法の状況を押し止めることが出来ない。
ただ為す術もなく流されて行くだけ。
そんな状況から少しでも距離を置きたければ、もはや狂人となる外は無い。
それが戦争の真実。
だから、「戦争」という状況、それを作り出してはいけないんだね。


P.S.
「カジムヌガタイ」は“Yahoo!コミック”や“ebookjapan”で読める。
“Yahoo!コミック”の方が安いけれど、閲覧可能期間が80日。
自分は、無期限に蔵書することが出来る(?)「ebookjapan」で購入したけどね。
それにしても、・・・本はやっぱり紙の方がいいな〜。(笑。)
電子書籍は印刷も出来ないんだよね。 (>_<)



posted by カムイ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦争と平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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